この回、最初に断っておくことがある。
喋っているのは、俺だ。
セレモニーの場で、一緒にワークをしていた仲間——ももちゃん——がお題を出した。「人との向き合い方、対人関係。大切なこと」。それに、メディスンの中にいる俺が答え、最後に朝陽がひと言で受けた。その3分34秒が、そのまま音源になっている。連載で初めて、解説する側が、される側になった回だ。
自分の声を、自分で解くのは妙な気分だが——あの場で出てきた言葉は、たぶん普段の俺より正直だ。だから逃げずに解く。
お題:「人との向き合い方」
ももちゃんのお題に、俺の口から最初に出てきたのは、こうだった。
最近の1番大きい変化は、もう、自分が本当に大した人間じゃないっていう——自分1人じゃ何も気づけなかったし、今も、自分1人じゃ何も気づけないっていう、謙虚さでしか、シャーマンとしては人に接せられないな、みたいなの、感じてて。
かっこいい話をしようと思えば、できたはずだ。メディスンで開いた知覚の話とか、ワークで起きた不思議な現象の話とか。でもお題が「人との向き合い方」だった瞬間、出てきたのはこれだった。
自分1人じゃ、何も気づけない。
過去形と現在形、両方で言っているのがポイントだ。「気づけなかった」——これまでの気づきは全部、誰かとメディスンがくれたものだった。「今も気づけない」——そしてそれは、これからも変わらない。
「あげよう」が入った瞬間、祈りはエゴになる
前回のvol.10で、「心配になったら、そこに光を送る」という実践を書いた。あれはこの連載で一番、今日から使える話だったと思う。
ただ、その実践には、罠がある。この回の俺は、その罠の話をしている。
導いてあげよう、とか、救ってあげよう、とか、光を送ってあげよう、みたいな、そういうエゴで向き合うと、全然よかじゃない。そのレベルって、シャーマンじゃないというか、理解も経験も足りてないのに、全然朝陽から独り立ちしてるわけでもないのに、プロですみたいな顔して、それを押しつけるのは——「あ、違った」みたいな。格好悪いなと思って。
「光を送る」と「光を送ってあげる」。
一字しか違わない。でも、この一字に、上下関係が入っている。「あげる」と言った瞬間、送る側が上で、受け取る側が下になる。導く者と導かれる者。救う者と救われる者。治す者と——もう分かると思う。祈りが、施しに変わる。
vol.10で書いた通り、光を送ると、まず自分の場が変わる。だがそこに「あげよう」が混ざっていると、送っているのは光じゃなくて、自分の優位だ。それは、よか(魂の喜び・天の許可)じゃない。
「よかじゃない」という言い方を、あの場の俺はしている。気持ちよく聞こえる祈りの形をしていても、天が「よか」と言わないものがある——エゴの祈りが、それだ。
スコトマ ——自分の盲点は、自分では見えない
では、自分の祈りに「あげよう」が混ざっているかどうか、どうやって気づくのか。
ここが、この回でいちばん大事な構造だ。自分では、気づけない。
メディスンによって教えてもらったし、自分のワークも、自分で全く気づけないし、意識の、盲点みたいなのがあるんだけど、そのスコトマのことを、朝陽とかと一緒にいる中で教えてもらって。「まあ、全然そのままなんじゃないか」みたいな、「確かに」みたいな。
スコトマ(scotoma)は、もともと眼科の言葉で「暗点」——視野の中にある、見えていない領域のことだ。面白いのは、暗点の本質は「黒く見える」ことではなく、見えていないことに気づけないことにある。視野が欠けている場所は、欠けて見えるのではなく、最初から「無い」ものとして処理される。脳が周囲で埋めてしまうからだ。
意識にも、同じ構造がある。自分のエゴ、自分の癖、自分の「あげよう」——それは性格の欠点として見えているのではなく、視野として最初から存在しない。だから、どれだけ内省しても、自分一人では届かない。
気づきをくれたのは、メディスンと、師だった。薬が知覚を開き、師がその知覚の死角を指す——両方がいる。俺は朝陽と一緒にいる中で、自分のスコトマを「ここだよ」と指されて、初めて「確かに」と見える。逆に言えば——師を持たないシャーマンは、自分の盲点ごと人にワークをすることになる。それが、どれだけ危ないか。
「すごい良かったです」が来るからこそ
この謙虚さの話は、抽象論じゃない。あの場の俺は、直近の実体験を話している。
島、一緒に行った人とか——パワーストーン作って竜神のパワーを授けるワークしてる人とか、ヒーラーやってる人とか、占い師で姓名判断とか、光を送って一緒に祈ってあげるみたいなワークをしている、その3人と行って。そういう、すごいレベルの高い人たちに、ワークして、ハペを吹いてあげたりとかする機会があったんだけど。そっから数日経って、「すごい良かったです」みたいな連絡来るからこそ——浮かれないで、謙虚になんなきゃ、みたいなのを、めっちゃ最近、意識するようになってる。
それぞれの道で長く実践してきた人たちに、ワークをして、ハペを吹く機会があった。数日して「すごい良かったです」と連絡が来る。
ここで普通は、浮かれる。「俺のワーク、すごい」と。
だが、それこそが罠の入口だ。「良かったです」が来た瞬間に「俺がやった」が立ち上がる。「俺がやった」が立ち上がった瞬間、次のワークには「あげよう」が混ざる。だから——評価が来るからこそ、謙虚に。順序が逆じゃない。評価が来た時こそ、謙虚さの正念場なのだ。
「ぼやけ」——シャーマンの採点は、言葉じゃない
そして、俺が語り終えて「どう?」と聞いたとき、返ってきたものが、この回の白眉だと思う。
まず、ももちゃん——一緒にセレモニーをしていた、場を視る目を持つ仲間——が、こう観測した。
あ、でも、ちょっと、ぼやけ、弱かった。背景の問題もあるかもしんないけど、ぼやけ弱かったけど、入ってきた。このぼやけの強さが、師匠との差なんだろうかもしれんな。顔の動きは、ゆっくりに見えた。不思議なことが起きてる。
そして、朝陽が、ひと言で受けた。
イボガの精霊が、遊んでますね。よか。
話の中身を褒めるのでも、直すのでもない。ももちゃんが見ていたのは、語っている俺の「ぼやけ」——場に立ち上がるエネルギーの現れ——だった。
謙虚さについて、それなりに整った話をした。でも返ってきたのは言葉への評価ではなく、「ぼやけ弱かったけど、入ってきた」。内容は入ってきた、でもエネルギーの強度は、まだ師匠(朝陽)の域じゃない。そして師匠本人は、俺の中で動いているものだけを観測して、ひと言——「イボガの精霊が、遊んでますね」。よか。
言葉でどれだけ謙虚を語っても、場は嘘をつかない。シャーマンの世界の採点は、そこで行われている。しかも、視ているのは師匠一人じゃない——場にいる全員が、視ている。だからこそ、「プロですみたいな顔」は通用しない世界なのだ。
力がつくほど、謙虚になる
この回を解きながら、一つ確認できたことがある。
メディスンの道が深まるほど、人は「自分はすごい」に向かうのではなく、「自分1人じゃ何も気づけない」に向かう。力がつくほど謙虚になっていく——この方向性こそ、道が本物であることの印だと、俺は思う。逆向き——ワークを重ねるほど全能感が増えていく道——があったら、それはスコトマが育っているだけだ。
俺がライトワークセンターで導いているメディスンホイールプログラムも、この謙虚さの上にある。俺はまだ朝陽の弟子で、それを隠す気もない。自分の盲点を師に指されながら、それでも旅の道案内はできる——案内人が「全部見えているプロの顔」をしている道より、よほど安全だと思っている。
だから「安心して」とは言わない。ただ、隠していない、とは言える。
詳細はこちらに:メディスンホイール|ライトワークセンター(https://lightworkcenter.com/medicine-wheel)
あなたへ
vol.10の「心配になったら、そこに光を送る」を、もし試してくれた人がいたら——今回はその続きとして、一つだけ。
光を送るとき、「あげよう」が混ざっていないか、ちょっとだけ見てみてほしい。
混ざっていても、落ち込まなくていい。それに気づけた時点で、スコトマが一つ消えている。見えない場所は、見えた瞬間に、もう盲点じゃない。
そして、どうしても自分では見えない場所のために——人は、師と仲間を持つ。自分1人じゃ、何も気づけない。それを知っている人のことを、たぶん、謙虚な人と呼ぶ。
動画はこちら:ネオシャーマニズム講座 vol.12|祈りと共鳴の記録(
参考文献・引用元
心理学・知覚
- スコトマ(scotoma):神経眼科における「暗点」——視野内の欠損領域。欠損は「黒」として知覚されず、周囲の情報で補完されるため本人は欠けに気づけない(盲点の充填)。意識・認知の「心理的盲点」への拡張はコーチング等の文脈で用いられる
連載内参照
- vol.10(心配になったら、そこに光を送る——本回はその影の面)/ vol.11(メディスンホイール総論・ハペ)
※本記事は「ネオシャーマニズム講座 vol.12」(2026-06-02公開)——セレモニーの場で仲間(ももちゃん)がお題を出し、共同事業者の長島光(俺)がメディスンの中で語り、ももちゃんと朝陽が受けた音声記録——を、長島光自身が振り返って解説したものです。※メディスンは医療行為ではなく、シャーマニズムの伝統的実践です。診断・治療・処方は行いません。効果には個人差があり、体験は保証されるものではありません。既往症のある方は必ず医師にご相談ください。